2012年2月29日水曜日

フェルメールからのラブレター展:フェルメールの手紙画

Bunkamuraザ・ミュージアム『フェルメールからのラブレター』展の第Ⅲ部「手紙を通したコミュニケーション」には、今回の超目玉であるフェルメールの作品が展示されていた。

《手紙を書く女》1665年頃
窓の描かれていない部屋の中で、手紙を書いていた女性がふと手を止めて、こちらを振り向く。
そのまなざしは理知的で、引き締まった口元が凛々しい印象を強めている。
恋文をしたためる悩める女性というよりも、公文書にサインをする貴婦人のような風格が漂う。
女性は窓から射し込む現実の光ではなく、厳かで神々しい光を身にまとうかのように静かに輝いている。
手の表情がいかにも女性らしく、細くなめらかに描かれているが、X線写真の分析によると、右手の位置が描き直された跡があるそうだ。
画家が細かい部分にも細心の注意を払い、思考錯誤を重ねた様子がうかがえる。
画中画には、「愛と調和」を暗示する楽器(ヴィオラ・デ・ガンバ)が描かれているが、フェルメール自身が画中画通りの象徴性を意図してこの画を描いたかは定かではない。

真珠のリアルな輝きや、斑模様の毛皮が縁取りされた黄色いサテンのドレスの質感の表現は緻密で見事としか言いようがない。
この黄色いサテンのドレスは、現在知られているフェルメールの作品のうちの6点に登場する。
おそらくフェルメールの妻の持ち物で、この絵も妻のカタリーナ・ボルネスがモデルではないかとされている。
(実際に、フェルメール没後に作成された財産目録にもこの黄色いガウンが含まれており、この夏来日予定の《真珠の首飾りの少女》の若い女性もこのサテンの上衣を身につけている。)

ところで、この《手紙を書く女》の連作とされるものに、《女と召使》という作品がある。
(注:《女と召使》は、今回来日していません。)
《女と召使》1667-68年

先日『日曜美術館』でニューヨーク・フリック・コレクションの名画としても紹介された一枚だが、はたしてこの絵がほんとうにフェルメールの作品なのか疑わしい気がしないでもない。

光の表現が強く、どこかぎらぎらしており、あの繊細に漂うような光の表情は影を潜めている。
女性の顔立ちも、整い過ぎていて、これまでのフェルメールの描く女性像とはかなり趣を異にしている。
それに、背景が真っ黒で何も描かれていない。
背景が無地のフェルメール作品はほかにもあるが、《女と召使》の背景は無地の黒で、どちらかというとカラヴァッジョ的な、光のコントラストの効いたドラマティックな演出になっている。
フェルメールの新たな試みなのかもしれないが、わずか数年で劇的な作風の変化である。
実物を見ていないので、何ともいえないが、どうなのだろう……?


《手紙を読む青衣の女》1663-64年頃

1660年代半ばに描かれたフェルメール絶頂期の作品のひとつ。

やわらかく繊細な光に包まれて、一心に手紙を読む女性。
半ば口を開き、手紙を握りしめるその細い手が、女性の内面に湧き上がる強い感情を伝えている。
宝飾品は一切身につけていない簡素な身なりだが、ラピスラズリの高貴な青が女性の知性と気品を雄弁に物語る。
この絵は近年修復が施され(修復作業の模様が映像で公開されていた)、あの美しいフェルメール・ブルーが見事に甦っていた。最新の修復技術はすごいものだと感心しきり。
修復する人の精神力にも感服した。
名画の修復家には、天皇陛下の執刀医に匹敵するほどのプレッシャーがのしかかるにちがいない。

この絵の壁に掛けられている地図は、1658年にフェルメールが描いた《士官と笑う女》の背景にも掛かっていた世界地図と同じもので、オランダを代表する地図製作者ヨアン・ブラウが1620年代に作成したものとされている。
画中画としての地図には、「愛する人の不在を示す」意味があるとか、「外の大きな世界の広がりを暗示する」とか、さまざまな解釈があるが、この絵の場合はどうだろう。

その謎を解くカギは、手紙を読む女性の腹部にあるようだ。
女性のお腹の膨らみについては、当時はダボッとしたファッションが流行していたという説があるが、はたしてそうだろうか。
同じフェルメールの《二人の紳士と女》や《窓辺で水差しを持つ女》では、女性はウエストマークされたドレスを着ているし、同時代の他の画家の作品でも女性のドレスは妊婦服ほどにはダボッとしていない。

それにフェルメールには10人の子供がいたため(実際には14人いたが、そのうち4人は幼くして亡くなっている)、フェルメールの妻は多くの時間を妊婦の状態で過ごしたことになる。
腹部の大きな女性を描いた作品《手紙を読む青衣の女》、《真珠の首飾りの少女》、《天秤を持つ女》は、いずれも1662-64年の同時期に描かれており、これは同じ妊婦の女性をモデルにしたためと考えられないだろうか。

そこで、壁に掛けられた世界地図と、妊婦と思しき手紙を読む女性とを重ね合わせると、当時オランダが交易していたインドや中国や日本など、アジアのどこかに旅立った夫からの便りを読む身重の妻の姿にも見えてくる。

ほかにもさまざまな解釈が成り立つ。
見る者のその時々の状況や精神状態が、手紙を読むこの女性の心理への解釈にも投影されるところがフェルメールの絵の面白さでもある。



《手紙を書く女と召使い》1670年頃

率直な感想を言うと、この絵は残念な絵だ。
あのふんわりと浮遊するようなあたたかみのある、厳かで精妙な光は、もうここにはない。
現実の窓からくっきりと射し込む世俗的な光が、写実的に描写されているだけだ。
チェス盤のような床には真っ赤な封蝋(当時は封筒を使わずに、三つ折りした手紙を溶かした蝋で封をしていた)とクシャクシャになった紙が落ちている。
誰かからの手紙を読み、感情に駆られて握りしめた後で、返事をしたためているのだろうか。

画中画には「出エジプト記」の《モーセの発見》が描かれており、この絵には「和解」の意味が込められているとされている(ユダヤ人の男児を全員ナイル川に投げ込むようエジプトの王が命令したが、その後ユダヤ人の赤ん坊であるモーセをエジプトの王女が拾い上げるため)。
ゆえに、この女性は恋人への和解の手紙を書いているのではないかと一般的には解釈されている。

女性がどんな手紙を書いているのかはさておき、問題は召使いである。
おそらく女主人が手紙を書きあげるのを待っているのだろう、窓の外を見ながら所在なげに腕を組んで佇む女性。
内心イラついているのだろうか、顔にはけっして肯定的とはいえない、どちらかというとネガティブな表情が浮かんでいる。
《手紙を読む青衣の女》などの1660年代半ばの、あの無駄を排したシンプルで静かな画面とは打って変わって、この《手紙を書く女と召使い》は煩雑で落ち着きのない絵になっている。
召使いを描かずに、手紙を書く女性だけをクローズアップしていたら、もっと控えめで瞑想的な雰囲気に仕上がっていたかもしれない。

1660年代に、簡素な美を体現したフェルメール独自の境地を切り開いたかに見えたのに、なぜ、これほどさまざまな小道具を散りばめるようになったのか。
これも、フェルメールの実験的な試みのひとつだったのだろうか。
自己模倣を繰り返すよりははるかにいいが、絵の中に余韻を残すあの画法を捨て去ったのは、じつに惜しい気がする。

現在はアイルランド・ナショナル・ギャラリーに収蔵されているこの《手紙を書く女と召使い》は、かつてはダブリンにある名画コレクターのアルフレッド・バイト卿の邸宅ラスボロー・ハウスに所蔵されていた。
この絵は、ラスボロー・ハウスから2度も盗み出され(1度目はIRA活動家によるアートテロリズム、2度目は普通の絵画泥棒による犯行)、2度とも無事に戻っている。
1度目のアートテロの時はとりわけドラマティックで、無期懲役刑で服役中のIRAのテロリストの北アイルラドへの移送と現金を要求するために、この絵が「人質」にとられたのだ。
イギリス当局がアートテロへの譲歩はしないという毅然とした態度を示し、犯人も逮捕されたことから、この絵は無傷で返還された。
(参考文献『謎解きフェルメール』小林頼子・朽木ゆり子著、とんぼの本)

こうした背景にも思いをはせれば、今回、この絵が来日して、こうしてこの目で鑑賞できたことは、奇跡としかいいようがない。
(実際にフェルメールの作品の中には《合奏》のように、盗まれたままいまだに行方知れずになっているものもある。)
そういう意味でも、手紙にまつわるフェルメールの3作品が一堂に会した本展覧会は、めったに得られない貴重な機会を提供してくれたと思う。
多謝!!






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フェルメールからのラブレター展:17世紀オランダの室内画

2月末の凍てつく夜にBunkamuraで開催されているフェルメール展に行ってきました。
                                                                                                                

本展覧会は4部構成となっていて、第Ⅰ部《人々のやりとり》と、第Ⅱ部《家族の絆、家族の空間》では、17世紀のオランダ絵画らしい室内画を中心に展示されていた。
(以下は、印象に残った作品の感想の覚書など。)

●ヘラルト・テル・ボルフ《音楽の仲間》(1642-44年)、《眠る兵士とワインを飲む女》(1660年代)

 《音楽の仲間》は、画家の兄弟をモデルにしてヴァージナルやヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバを演奏する人々を描いたもの。テル・ボルフらしく、楽器を演奏している人々とは思えないほど、無表情で、身振りが少なく、動きが静止している。楽器を奏でながら、みんなで瞑想にふけっているような趣があった。矩形を組み合わせた構図が効いている。

《眠る兵士とワインを飲む女》は、テーブルにうつ伏せになって眠りこける兵士と、右手にデキャンタ(?)を持ち、左手にワイングラスを持って、手酌でワインをあおる女性が描かれた絵。
女性は画家の妹がモデルになっていて、恋の苦しみが描かれているという解説だったが、女性の切ない胸の内を表現するにしては、「一人でやけ酒」の女性という主題では、ギャグのようで絵にならないというか、どうしてこのような主題を選んだのか理解に苦しむ絵だった。

テル・ボルフはワインを飲む女性の絵をたくさん描いているが、グラスを手にして物思いにふける風情を描いた絵は美しいが、ワインを飲んでいる最中の女性の姿を優雅に描くのは巨匠の筆でも難しいのだろうか。


このコーナーで特に心に残ったのが、ピーテル・デ・ホーホの《中庭にいる女と子供》(1658-60年)。
http://www.museumsyndicate.com/item.php?item=6943

黄昏時の中庭。これから夕飯の支度をするのだろうか、水差しを持ち、パン籠を抱えた赤いスカートの女性と、鳥籠を持った女の子が描かれている。
戸口から見える部屋の中では、テーブルをはさんで男女が語らい、静かな夕べのひとときを楽しんでいる。
少女が抱える鳥籠は、(自由はないが)壁に囲まれることによって守られる「中庭」、あるいは中庭が象徴する「家庭」に見立てることもできる。
しかし、この絵でとりわけ印象的だったのが、絵の消失点ともなっている中庭の出入り口だ。
中庭から階段が数段伸びたところに、出入り口の扉が開いている。
その扉口から、中庭の向こうの世界が見える。

高い壁に囲まれた中庭の中がすでに夕闇に包まれているのに対し、中庭の外の世界はまだ日没前で、空が明るく輝き、樹々が金色の光に照らされている。

飼い主に保護された籠の中の鳥が外の世界に憧れるように、いまは家庭と中庭によって守られている少女もまた、光り輝く外の世界を志向するのだろうか。

静かで穏やかな場面の中にさまざまな物語を想起させる美しい絵だった。



さて、第Ⅲ部のフェルメールの作品については、別項で感想を書くことにして、第Ⅳ部《職業上の、あるいは学術的コミュニケーション》では、おもに学者や弁護士などを題材にした知識人が描かれていた。

ここで面白かったのが、当時の書斎のしつらえだ。
レンブラントの弟子だったヘリット・ダウの《執筆を妨げられた学者》(1635年頃)には、伝統的な書斎のトレードマークともいえる書物や地球儀のほかにも、髑髏や砂時計など、「生のはかなさ」を暗示するヴァニタス的なものも置かれている。
コルネリス・デ・マンの《薬剤師イスブラント博士》(1667年頃)にも、薬剤師らしく戸棚の中に薬瓶が多数収められ(ガラスの瓶も脆く壊れやすいものの象徴)、楽器や地球儀が登場する。
「知るべきことはあまりにも多く、人生は短い」ことを示唆しているのだろうか。

コルネリス・ビスホップの《書斎の学者》(1655年頃)では、古びた書物が「天」や「小口」をこちらに向けて並べられている。
近代以降、本は(現在のように)背表紙を前に向けて並べるのが一般的になったが、昔は天や小口をこちらに向けて陳列するのがスタンダードだった。

(ヘンリー・ペトロスキー著『本棚の歴史』によると、かつて古い図書館では、本は鎖につながれていたという。つまり、表紙の前小口側に鎖がついていたため、背表紙を棚の内側に、小口を外側にして陳列するようになった。本から鎖が外された後も、この習慣がしばらく残ったため、17世紀当時のオランダでも小口を前にして本を縦置きしていたと考えられる。)




追記:本展覧会の室内画には必ずといっていいほど、人物以外にも、愛玩用の犬や猫が登場し、鳥籠が描かれていた。
裕福な家庭だけでなく、比較的貧しい部類に入ると思しき家庭でも同様の現象が見られることから、どうやら17世紀のオランダでは、いまの日本のような一大ペットブームが巻き起こっていたらしい。


Bunkamuraギャラリーでは、有元利夫と舟越桂版画展が開催されていた。
有元利夫の作品はバロック的でどこかノスタルジック。画集が欲しくなった。

2012年2月26日日曜日

ブールデルと『昔日の客』

わずかでも金があれば、わたしは本を買う。それでも残ったら、食べ物と服を買う。
                             ――エラスムス

エミール=アントワーヌ・ブールデル《弓をひくヘラクレス》

最近、愛書家や書痴にまつわる本を翻訳したので、参考文献として、ビブリオマニアたちの著作を読み漁った。

蔵書狂にまつわるエピソードには凄まじいものがある。
なかには、本をため込み過ぎて家の土台に亀裂が入り、建物が傾いたビブリオマニアや、地震で本の山が崩れて生き埋めになったビブリオマーヌの挿話も混じっていた(ジョン・ダニングの『愛書家の死』に描かれていたフィクションだが、そういう蔵書狂が実在してもおかしくない。)



そうした参考図書のなかに、以前から気になっていた書籍があった。
『昔日の客』(関口良雄著、夏葉社)という、作り手の愛情を感じさせる世にも美しい布装の本だ。
山高登の木版画の口絵にも、美味なる手触りの上質の紙が使われている。


「昔から、文章は人格の現れであると云われておりますが」と谷崎潤一郎もいっているが、山王書房という伝説の古書店の主(あるじ)が書いたこのエッセイ集からは、関口良雄の気難しくもあたたかい、老若男女を惚れされる、じつに魅力的な人柄がひたひたと滲み出てくるようだ。
虚飾や衒いや技巧を微塵も感じさせない、無駄な力を抜いた、じんわりと味わい深い文章。
ほんとうの名文とは、こういうものだろうかと思ったりもする。


数々の文士や市井の本好きたちとの本を介した交流のなかで、とくに心に残ったのが、タイトルにもなった「昔日の客」こと、野呂邦暢とのエピソードだ。


高校卒業後、上京してガソリンスタンドで働いていた野呂邦暢は、山王書房に足しげく通っていたという。そのときの様子は、野呂邦暢随筆選『夕暮の緑の光』にくわしく描写されている。



「給料は食べてゆくのがやっとだったので、私がそこで古本を買うのは月に二、三回もなかったと思う。それも三十円内外の文庫本ばかりである。長いこと立ち読みをしてあれこれと思い惑ったあげく、清水の舞台から飛び降りるような悲愴な覚悟をして買おうと決めるのだ。なるべくおかみさんが店番をしている時に買った。値切りやすかったからである。癇癪持ちのように見える主人にたいしては、まけてくれと言い出しにくかった。」


「ある日、つとめ帰りにS書房へ寄って文庫本の棚を物色していると、かねてから欲しいと思っていた本が並んでいるのに気がついた。上中下三冊が揃っている。ふところ具合を考えていつものように迷った。昼飯を何回か抜けば変えないこともない。(中略)さんざん迷った末に私はその三冊をおかみさんの方へ持って行って値切った。(中略)

 お客さん、それは困る……。おかみさんの後ろから主人が顔を出した。うちも商売だから、ぎりぎりの値段をしょっちゅうまけるわけにはゆかない、というのである。」



ここで、野呂の足はしばらく山王書房から遠のくのだが、半年あまりののち、野呂は九州に帰郷することになる。かねてから欲しかった高価な『ブールデル彫刻写真集』が山王書房の店先に陳列されていたため、野呂は意を決して、同書店を訪れる。


「ちょうど給料の四分の一にあたる値段であったと覚えている。当時は豪華本である。私は郷里に帰ることを主人に告げた。彼は黙って値段を三分の二にまけてくれた。餞別だというのである。私は固辞したけれどもいい出したらきかない相手だった。」



それから何年かのちに、野呂邦暢は『草のつるぎ』で芥川賞を受賞する。授賞式出席のために上京した際に、山王書房店主・関口良雄に電話をするのだが、関口のほうでは、あまり覚えていなかったらしい。『昔日の客』には以下のように記されている。



「本好きの野呂さんは、私の店によく本を買いに来た。或る時、小遣いが足らなくなって本を値切ったら、関口さんに大分叱られたと言って、その様子を細々と話すのだが、私にはどうしても思い出せなかった。(中略)私はふと、自分が大変うかつであったことに気がついた。たしか五、六年前だったか、僕は昔この店によく本を買いに来たことがあると言って、何冊かの本を買っていった人があった。(中略)そうだ、あの時、その人は野呂邦暢と言った。」

電話口で、関口は野呂から芥川賞の授賞式の会場に出席してほしいと言われ、喜んで出席を約す。授賞式では二人は直接言葉を交わすことはなかったが、数日後、野呂が妻を伴って、山王書房を訪れる。




「話の途中で野呂さんは、何かお土産をと思ったけれど、僕は小説家になったから、僕の小説をまず関口さんに贈りたいと言って、作品集『海辺の広い庭』を下さった。
その本の見返しには、達筆な墨書きで次のように書いてあった。

『昔日の客より感謝をもって』    野呂邦暢」                  




  
こうした書物を介したつながりがたまらなく好きだ。
それに、
「清水の舞台から飛び降りるような悲愴な覚悟をして買おうと決める」という野呂邦暢の言葉。
本を買うときは、かくありたいと心から思う。
「昼飯を何回か抜く」覚悟で欲しい書物を手に入れ、貪るように読んでみたい。
そして、無人島の一冊レベルの厳選した愛する書物だけに囲まれて暮らしたい。

そういうわけで、
(安易な方法ではあるが)本を一冊買うごとに一食抜く、というプランを実践することにした。
清水の舞台ほどではないにしろ、本を購入して読むことに、「切実さ」が欲しいのだ。
何かを犠牲にしてまで手に入れたいという切実さが。
プチ断食にもなるから、一石二鳥かもしれない。







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2012年2月21日火曜日

江戸時代の化粧

先週に引き続き、一昨日も東博へ行ってきた。

色ガラスのように透き通った青い空

トルコブルーの琺瑯の壺をもう一度見ておきたかったのだけれど、この日は北京故宮博物院展の最終日だったので、あまりにも人が多く、断念。
代わりに、常設展をじっくりまわることにした。
利休が所有したとされる備前焼の水差しや、高村光雲の《老猿》(どうしてこれほどの作品が国宝でないのか不思議)など、見ごたえのある展示品が盛りだくさんで、いつもながら楽しめた。


今回、特に面白かったのが、本館16室で展示されていた江戸・明治時代の化粧法の和本だ。

都風俗化粧伝 佐山半七丸著、速水春暁画、1813年


都風俗化粧伝


1世紀以上にわたり女性たちに愛読されたロングセラー。
肌や髪の手入れ法、眉や目のメイクアップ、顔立ち別の化粧法、化粧品の作り方などが紹介されている。
展示品は初版本。版木は関東大震災で焼失するまで使われていたそうだ。



伊勢家祝之書 伊勢貞丈、明治10年(1877年)

江戸時代中期の故実家、伊勢貞丈による礼法書。髪の生え際を白くするために、軽粉(はらや)という水銀白粉が用いられたという。




人倫訓蒙図彙 元禄3年(1690年)

江戸時代の生活百科。
図の「蘭麝(らんじゃ)粉」とは、顔の脂落としの洗い粉で、使用すると色艶がよくなるとされた。




江戸買物独案内 文政7(1824)年

江戸の有名店を紹介したショッピングガイド。
2622店舗が掲載されているなかで、化粧品関係の店は86軒もあったという。



『江戸買物独案内』の「髪生薬」。うーん、いつの世も……。


『江戸買物独案内』の「団十郎歯磨き」

瓢箪屋の「団十郎歯磨」の宣伝。
4代目団十郎にちなんで「鎌輪ぬ」を商標にした看板を掲げている。
口上は、初代三笑亭可楽のもの。



桃の節句が近いこともあり、常設展では雛人形関係の展示もあった。

紫檀象牙細工蒔絵雛道具 江戸時代

タイトル通り紫檀に象牙細工と蒔絵を施した、精緻で贅を尽くした雛道具。
当時としてはきわめて貴重だった、硝子(ギヤマン)のグラスまでついている。
保存状態も、江戸時代のものとは思えないほど。
いったいどのような「御姫様(おひいさま)」のためにつくられたのだろう。
見ていてため息が出た。



絵画の展示室には、大好きな橋口五葉の版画も3点紹介されていた。

甘い香りが漂う美人画にしばしうっとり見入る。
ロセッティとミュシャを足して2で割って和風にしたような、優美で清楚な大正美人だ。

髪梳る女 大正9(1920)年







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文明の残滓

2月の週末、2週続けて上野の東京国立博物館へ。


お目当ては『北京故宮博物院200選』展。




本展覧会の超目玉だった「清明上河図」(伝・張擇端作)は早々と帰国されていて、実物にはお目にかかれなかったが、複製と映像と拡大図を見るだけでも、胸がわくわくして、おそらく一日中見ていても飽きないほど素晴らしい作品だった。

773人の人々が毛髪よりも細い線で描かれている、じつに緻密な作品だ。
5メートルの巻物に、物売りや客引き、酔っ払い、ラクダの隊商、船上生活者、洗濯をする人、易者、質屋、講釈師、道士、高級官吏など、誰もが皆、何かに従事し、笑い、楽しみ、嘆き、悲しみながら生きている。
人々の活気によって、画面全体がアニメーションのように躍動し、息づいている。
群衆一人ひとりの動きは静止しているはずなのに、画面からは溢れんばかりの生命力が伝わってくる。
数百年経った今でも、画中の人々は生き続けている。
神品といわれる「清明上河図」だが、まさに神業だ。
実物を見るのに、3時間待ちの行列ができたというが、たしかにそれだけの価値がある。
ああ、見たかったなー。


「清明上河図」以外にも見ごたえのある作品が山ほどあったが、特に印象に残ったものだけをピックアップすると;

●『方盤』(戦国時代)
 青銅器の方盤。虎の形をした足が4本ついているが、その虎はそれぞれ他の猛獣に咬みつ
 かれ、その猛獣に蛇が巻きついている。内側には、絡み合う110匹の小さな龍や、カエル、魚、
 亀などの文様が彫られ、側面には、羊に授乳する怪人や、翼と嘴のついた人面などがあしら
 われている。
 これらの彫刻の背後には、いったいどのような世界観があるのだろうか。
 おそらく祭祀用のもので、魔除けのような意味合いがあるのだろうが、「羊が授乳する」のでは
 なく、「羊に授乳する怪人」というコンセプトが斬新で面白い!
 この精緻な作品が紀元前5,6世紀の作品なのだから、中国文明、おそるべし。


●『草書諸上座帖巻』 黄庭堅筆 (北宋、1099-1100年頃)
 今回、宗四大家の書が多数展示されていたが、とりわけ気に入ったのが、この黄庭堅の作品。
 ミロの抽象画を思わせる、自由闊達にして天衣無縫な「狂草」から、最後には端正な行楷書へ
 と転じる、じつに音楽的な作品だ。
 書とは絵画であり、シンフォニーでもあるのだと初めて悟った。
 もはや人間業ではない。
 黄庭堅にも神が宿ったにちがいない。


●『琺瑯蓮唐草文龍耳瓶』 (元・明、14-15世紀)
 「琺瑯」とは、七宝焼き(クロワゾネ)のこと。
 目が覚めるような鮮やかで透明感のあるトルコブルーの地に、華麗な花の文様が施され、
 龍の形をした黄金の耳がついた壺。
 口縁や台座にも金があしらわれた宝石のような輝きを放つ作品だ。
 この優美な「青」にもう一度会いたくて、展覧会の最終日にも訪れたのだが、あまりにも混んで
 いたので断念して、その日は常設展だけを見ることにした。
 (常設展については別項で紹介する。)



以上、いずれ劣らぬ名品ぞろいだったのだが、その美しさに触れるにつれ、
かつてこの世に存在した、これら名品以上の傑作のことを思わずにはいられない。

子どものころに、台北の故宮博物館に2度ほど訪れたことがある。
子ども心にも、その絢爛たる輝き、目眩がするほどの細密さ、息をのむほどのスケール感に圧倒された。
とても人間がつくったものとは思えなかった。
そこには、心臓をつかんで激しく揺さぶるような、有無を言わせないパワーがあった。
ただもう、見るだけで、「中国文明」という途方もなく偉大な文明の威力が伝わってきた。

蒋介石は文明の財宝をことごとく持ち去った。
残った宝の数々も、反右派闘争や文革によって、無残に破壊された(木彫の仏像などは壊滅に
ひとしい)。

形あるものはいつかは滅びる。
それは世のならいだけれども、
宗教によって、イデオロギーによって、暴力や戦争によって、科学技術への盲信によって、
破壊された文明の残滓をみるのはしのびない。


人間の愚行による破壊をみるのは、自然による破壊を目にするよりも、やりきれない思いがする。









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2012年2月11日土曜日

ザ・ベスト・オブ・山種コレクション:後期

先週、山種美術館創立45周年記念特別展に行ってきたので、その覚書です。



いつもながら、山種美術館は照明が秀逸。
日本画が多いので、絵画に負担をかけないよう照度をかなり抑えていて、会場全体では薄暗いのだけれど、それでいて作品が最も美しく見えるようにデザインされている。
筆致の細かい部分や絵の具の厚みの微妙な差異までよく見える絶妙なライティング。


おかげで、川合玉堂《早乙女》の彫り塗り(塗り残し技法)やたらしこみ、奥村土牛《醍醐》の錦臙脂と胡粉による薄紅色、上村松篁《白孔雀》の繊細優美で透けるような羽根などを細部まで堪能できた。

特に上村松篁の《白孔雀》は、あたたかい色合いの花の下に、まぼろしの鳥がたちあらわれた瞬間のような霊妙で厳かな雰囲気が漂っていて、絵のまわりの空気さえも清めるほどのどこか神がかり的な光輝を放っていた。
清らかでぬくもりのある霊気や儚げで消え去ってしまうような感覚をこれほど見事に表現した絵を見たのははじめてかもしれない。


ほかには、東山魁夷の《年暮る》が特に心に残った。
これは川端康成に「京都はいま描いといていただかないとなくなりますよ」と言われたことがきっかけで、京都ホテル(京都ホテルオークラ)の屋上から見下ろした大晦日の京都を描いたもの。

ふんわりとした綿帽子のような大粒の雪が、「東山ブルー」に染まった京の町屋にしんしんと降り積もる。
古都をやさしく包み込む、天からの恵みのようなぼってりした雪。
障子越しにほのかに明かりが灯っていて、静かだけれど、人の住む息づかいが感じられる。

心の中に、あたたかい雪がじんわりと溶け込んでいくような、そんな絵だった。



速水御舟の《炎舞》をみると、画家というものは絵に魂を塗りこめて描くのだとあらためて思い知らされる。
舞いあがる炎、舞いあがる煙、舞いあがる蛾、そして舞いあがる蛾の残骸。
焼かれるために、華やかな翅を美しく広げて舞う夜行蝶。
色鮮やかな炎にうっとりと心惹かれながらも、さまざまなメタファーが浮かんでくる。

いつも、いつも、この画を見るたびに、夢想することがある。
1匹の蛾となってこの死の舞踊に加わり、恍惚として炎に吸い込まれていく自分の姿を。








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