2012年4月22日日曜日

ボストン美術館展《吉備大臣入唐絵巻》

「ボストン美術館 日本美術の至宝」展第Ⅲ部は〈海を渡った二大絵巻〉。
《吉備大臣入唐絵巻》と、《平治物語絵巻》の「三条殿焼討巻」が展示されていた。


26 《吉備大臣入唐絵巻》 12世紀後半、平安時代
 《吉備大臣入唐絵巻》は、平安時代末期に後白河法皇の発意で制作されたとされている。
  この絵巻は、遣唐使として中国に渡った吉備大臣(吉備真備)が、唐の皇帝によって楼に幽閉され、数々の難題を課せられるが、唐土で客死した阿倍仲麻呂(幽鬼となって登場)の助けを借りながら、難題を次々と解決し、ついには「文選」、「囲碁」「野馬台詩」などを携えて、日本に帰国するまでの冒険譚をビジュアル化したもの。

 制作された当初は蓮華王院(現・三十三間堂)の宝蔵に収められていたが、その後さまざまな人の手に渡り、幕末には茶器蒐集家として有名な小浜の酒井家に伝わるが、大正期に名宝の売却がおこなわれた際に、大阪の古美術商が落札。その後、長い間買い手がつかなかったのを、東洋美術の買い付けのために来日したボストン美術館の富田幸次郎(天心の弟子)が購入した結果、《吉備大臣入唐絵巻》は海外に流出したとされている。


《吉備入唐絵巻》の構図の最大の特徴は、「吉備大臣が幽閉された楼門」、「唐の宮廷の門」、「唐の宮殿」という同一構図が反復する単純さであり、それゆえに、構図の複雑な《伴大納言絵巻》や《平治物語絵巻》に比べると、芸術的価値が低いとされてきた。


《吉備大臣入唐絵巻》のこのような評価に対して、日本史家の黒田日出男氏は著書『吉備大臣入唐絵巻の謎』(小学館)のなかで、同絵巻における錯簡(3箇所)の存在を指摘することによって反論している。

●黒田日出男氏が指摘した3箇所の錯簡

(1)第2後半には、帝王に命じられた宝志和尚が難読の「野馬台詩」を書いている場面が錯簡として入っている。

(2)第1段後半には、吉備大臣が日月を封じたために、唐朝の宮廷が大騒ぎとなっている場面の錯簡。

(3)第5段後半には、日月が封じられて唐土が真っ暗になった原因を占うべく、老博士らが宮殿に参内する場面が錯簡となっていた。


このように黒田氏は、錯簡の存在を指摘したうえで、「従来、現存『吉備大臣入唐絵巻』は、冒頭の詞書と後半部分だけの欠失が指摘されてきたのだが、そうではなかった。三つの段に錯簡があり、失われたと思われていた絵巻後半の三つの段が、錯簡状態で残っていたのである」としている。


黒田氏の指摘に従って、《吉備大臣入唐絵巻》を並べ替えてみると、絵巻の構図の冗漫さは解消され、ストーリーの流れもすっきりするので、同絵巻の醍醐味を存分に味わいたい方は、展覧会に足を運ぶ前に、『吉備大臣入唐絵巻の謎』を一読することをお勧めします。



さらに、この絵巻にもっと関心がある方にお勧めなのが、倉西裕子『吉備大臣入唐絵巻 知られざる古代中世一千年史』(勉誠出版)。

詳しい内容は割愛するが、倉西氏によると、吉備大臣が幽閉された到来楼と弥生時代の高層建築物(出雲大社など)、吉備大臣と卑弥呼、唐の宮殿と清涼殿(平安朝の内裏)とが、それぞれダブルイメージされて描かれているという(いささか牽強付会に感じるが)。

倉西氏の論考で興味深かったのが、唐の宮殿と清涼殿のダブルイメージを、この絵巻のプロデューサーである後鳥羽法皇が絵師に意図的に描かせたのではないか、という指摘だ。

同氏はこのように述べている。
唐王朝の宮殿と清涼殿のダブルイメージにも、院政と天皇親政という権力の二重構造の問題を抱えていた平安末期の政治状況を映し出す後白河法皇の意図があったようである。後白河法皇のの院御所が到来楼であるならば、対する天皇の清涼殿は唐王朝の宮殿となろう。絵巻は、院政側、すなわち到来楼側の後白河法皇の視点から描かれているのである。」


また、倉西氏は、到来楼に閉じ込められた吉備大臣に対して、後鳥羽法王が強い関心を寄せたのは、法王自身がその生涯で7度以上も幽閉されたからではないかと述べている。

そして後鳥羽法皇の第1回目の拉致・幽閉となったのが、平治の乱である。

今回の展覧会では、《吉備大臣入唐絵巻》に続いて、後鳥羽法皇拉致の場面を劇的に描いた、《平治物語絵巻》の「三条殿焼討巻」が展示されており、ことさら感慨深いものがあった。



以上、ぐだぐだと書き並べましたが、予備知識がなくても、絵を見ているだけでも十分に楽しめる、劇画チックで表情豊かな、ユーモラスな絵巻物でした。
とくに、吉備大臣と鬼が空中飛行する場面や、囲碁の勝負で吉備大臣が碁石を飲みこんじゃう騒動の場面は必見!
鳥獣戯画と並んで、日本アニメの元祖なんじゃないかな。