2010年8月19日木曜日

東京で「ねぶた祭り」

 お盆休みの土曜日、近所で「ねぶた祭り」がおこなわれていたので、浴衣を着て出かけてみました。



 ご存知のように、毎年7月下旬から8月上旬にかけて青森県黒石市で「ねぶた祭り」が開催されます。
 本場の祭り終了後すぐに送られてきたねぶた人形を、東京のこの町の人たちが補修したり、塗り替えたりしたものが、このねぶた人形だそうです。





 お盆の3日間で関東近郊から10万人の人々が訪れるとのこと。この日もかなりの人出でした。

                                         ドラえもんもいました。 
              地元の保育園の作品だそうです。

      ピカチューやキティちゃんのおめん。ウルトラマンもいます。
      どんなに可愛いキャラクターでも、おめんになると、
     (20世紀少年みたいに)どこか不気味な雰囲気が漂います。
      そこがいいんですよね。
      
         最近のスパーボールすくいはバラエティ豊か。
    子供のころ、「スーパーボールすくいのチャンピオン」でした(笑)。
    紙が破れてもポイの枠だけでいくらでも掬えます。
         

三国志



 この町の「ねぶた祭り」を訪れるのは2年ぶり。
 人出は相変わらず多かったのですが、今年は不況の影響でスポンサーが
 減ったのか、山車の数は少なかったように思います。
 (山車の行列がすぐに途切れてしまい、場が持たなくなるので、
 同じ山車がヘビーローテーションで巡行していました)。
 それでも地元の商店街の人々や有志が中心になって開催してくださっている
 おかげで、わたしのような出無精者でも散歩がてらに「ねぶた祭り」が楽しめる
 のですから、文句を言ってはいけません。
 主催者側はいろいろと大変なのだろうなあと思ったりしました。

 わたしの住むT市では、7月下旬から、毎週どこかで花火大会やお祭りが
 開催されています。
 東京の人って、ほんとうに祭り好きなんですね。

              

柿傳:松の翠と獺祭

 先週の金曜日、表千家ゆかりの茶懐石の名店、「柿傳」(@新宿)で
 ランチをしました。
 
                   川端康成の直筆

       「柿傳の茶席は東京に一つの名物となるでせう」
       という言葉を川端康成は残しています。


         表千家家元而妙斎御銘「松の翠」(純米大吟醸、伏見)

  ガラス杯に注いだ瞬間から甘い芳香が立ち昇るほど、芳醇な銘酒。
  透明度がきわめて高く、梨のようなフルーティーな香りと甘みがあり、
  ひとくち口に含むだけで、うっとりとした幸せな気分が体じゅうに広がります。

  夏にぴったりの、清涼感のある美味しいお酒でした。

  二合目は、山口県旭酒造の「獺祭(だっさい)」(純米大吟醸)。
  こちらも山田錦を50%まで磨いた、非常に香り高い美酒でした。


                       先付:(右)寄せ無花果(いちじく)、モロコシ味噌
             (左)鱧皮、胡瓜(大葉、胡麻、生姜酢)

    寄せ無花果とは要するにイチジクのゼリー寄せ。
    鱧皮は、コラーゲンたっぷりなのが嬉しい(笑)。


                                  向付:鯛と縞鯵

      これ、すっごくおいしかったです。お酒が進むのなんのって……。
      弦楽器(琵琶?)の向付皿が夏の怪談を連想させます。
      ちょっとした遊び心ですね。 


        煮物椀:海老入枝豆真蒸、雲丹素麺、椎茸、柚子

   茶懐石のメインディッシュにあたるのが煮物椀。
   亭主が最も心をこめ、料理人が最も力を入れる一品です。
   御出汁は京風の上品な味でとても美味しかったです。
   (ただ、ウニの味も香りもしない雲丹素麺は美観的にも
   ないほうがよかったかもしれません。)


                   焼き物:福子柚庵焼、青唐、山桃

    福子は、出世魚である鱸の稚魚で、おめでたい魚らしいです。
    脂がほどよくのっていて、焼き加減も完璧でした。


      揚物:鱧紫蘇揚、苦瓜二身揚、れんこん梅肉揚、赤ピーマン


                           炊合せ:南瓜、茄子揚煮、身欠にしん、オクラ


          ご飯、香の物、汁(焼目付湯葉、粉山椒)

      香の物は、これも京風の薄味でわたし好みでした。


        柿傳特製の紅白干菓子(「柿」の字の印)と御薄

   抹茶は小山園の「和光」で、とても甘みがありました。
   茶碗は角筈(つのはず)焼で、片岡哲という作家さんのもの。
   角筈焼とは、ここ新宿、柿傳角筈窯で焼かれた焼き物のことだそうです。
   (新宿の土で焼いたのでしょうか?)



 琴の調べが流れる落ち着いた店内。
 新宿(駅から徒歩1分)とは思えない静けさのなか、美味しいお食事と
 お酒、そしてお茶をゆったりと堪能した至福のひと時でした。

                          

2010年8月12日木曜日

建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション展

 最近、建築系のビジュアル本を翻訳したこともあり、先週の日曜日、東京国立近代美術館で開催されていた『建築はどこにあるの? 7つのインスタレーション』展に出かけた(この日は最終日)。

 展覧会のタイトル「建築はどこにあるの?」は来館者への問いかけ。各自が7つのインスタレーションに触れるなかで、その答えを見つけていくという趣向らしい。
 パンフレットに「あなたの答えを写真におさめよう!」とあるように、写真は撮り放題。デジカメ片手に撮りまくったおかげで、ただ見るよりも違った形で楽しめた展覧会だった(一眼レフを手にした若い女性も多かった)。

               中村竜治『とうもろこし畑』

     紙でできたこの構造物。ちょうどトウモロコシ畑の高さに作られていて、
     見る角度によって「向こう」の見え方が変化していく。




中山英之『大草原の大きな扉』

北海道の大草原に「カフェ」として設計された建築の3分の1の模型。草原の両側に「どこかにつながっていそうな」扉が開いている、という構成。


                      鈴木了二『物質試行51 DUBHOUSE』

    建築家いわく、「『DUBHOUSE』は何処にでも行ける建築」であり、
    「事物の境界を揺さぶり、輪郭線を消す」。



                内藤廣『赤縞』

      赤いレーザーに刻まれた暗い空間を通っていく。
      そうすることで、「人間が動くことで『空間』が生まれることに
      気づくのではないか」と建築家は言う。
      いつもは見えていない空間の抽象性を体感するための装置だそうだ。


                 菊地宏『ある部屋の一日』その1

  ちょっと分りにくいかもしれませんが、中央にあるのが部屋の内と外の模型。
  その周りをカメラがライトで照らしながら回っています。
  (太陽の一日の運行を模しているそうです。)


              菊地宏『ある部屋の一日』その2
           ライトに照られれた部屋の内と外の模型。
 
      そのカメラがとらえた映像が、次の展示室で映写されている。
 
           菊地宏『ある部屋の一日』その3

  このような二重の仕掛けによって、「自然光の入らない空間で、
  自然光をテーマにする」という難題を作品化することに成功した。
  そのアイデアに脱帽! 
  映像に対面する形でベンチが並べられていたので、
  縁側でゆったりと庭を眺めているような気分を味わうことができた。

 
 
            伊東豊雄『うちのうちのうち』
 
 
    現在進行中のプロジェクト「今治市伊東豊雄建築ミュージアム」の
   約2分の1のスケール。
   つまり、「美術館のなかにもうひとつの美術館」をつくったのが、
   今回の作品『うちのうちのうち』だ。
   垂直の柱や壁がまったくない、多面体の構造物となっている。



                    アトリエ・ワン『まちあわせ』

    キリンとゾウとカバさんと美術館の前で待ち合わせ、という楽しい作品。
 

       なぜかクマさんも展示されていた。これがいちばん気に入った!?
 
 
……結論、建築はどこにもなかった。      

                                           

ダブルスピークの絵画とスキタイの羊、あるいはマンドラゴラの根

(東京国立近代美術館のつづき)

 この日は2時前に着いたのだが、タイミング良く、所蔵作品展のガイドツアーが始まったので参加させてもらった。テーマは「大画面作品の見方」。最初の作品は、川端龍子の『草炎』だった。

 濃紺地の大画面に金泥で描かれた草花は、まるで蒔絵のようにも見える。
 同じ金泥でも、銀を混ぜて白っぽい色合いを出したり、金の純度を下げて透明感を出したりと、微妙な変化を加えることで、装飾性と写実性の見事なバランスが生み出されている。

 当初、洋画家だった川端龍子は渡米した際、ボストン美術館で目にした日本美術に感銘を受けて、日本画家に転向する。この精緻な写実性は、彼の洋画家時代の技術が生かされているのだろう。江戸琳派風のこの絵は、金を用いても決して華美にはならず、しっとりと落ち着いた風情を醸していた。




 次にガイドさん(大内久美子さん)に案内されたのは、福沢一郎の『牛』だった。

  大画面なので、まずは参加者一同、遠くからこの絵を眺め、ガイドさんから「どんな印象を受けますか?」などの質問を受ける。
 
 どこか歪(いびつ)な印象の絵だ。牛は短足で不格好で、ところどころ穴があいているし、肉にしまりがなく、どこか不気味である。背後では、人が、意味もなく折り重なっているのだろうか。どんよりとした雲。荒涼とした大地に太陽が容赦なく照りつけている。

 1930年代半ば、当時絵が売れなかった福沢(彼は最初、朝倉文夫に師事した彫刻家だったが、のちに洋画家に転向した)は、心機一転満州に渡る。日本とはあまりにも違う満州の風土、人々、町並み。そこからインスピレーションを得て描いたのが、この絵だという(牛は、古代ギリシャの壺絵のモチーフを参考にしたそうだ)。




 三番目にガイドさんに案内されたのが、大岩オスカールの『ガーデニング(平和への道)』。

       遠くから見た『ガーデニング』。タイトルと絵がしっくりこない。

 ここでも、先ほどと同じように、まずは離れて大画面の作品をみんなで眺めた。廃墟のような街並みが画面の左右に広がり、中央に河らしきものが描かれている。白く散らばっているのは、花だろうか。

  近づいてみると、戦車らしきものが見える。911事件後のイラク戦争を描いた作品だそうだ。作者は40代の日系ブラジル人、気鋭の画家だ。サブタイトルの『平和への道』というのは、アメリカがこの戦争で使った大義名分。つまり、非常にアイロニカルな絵であり、白い花のように見えたものは、場所によっては白い硝煙となっている。

 「平和のための戦い」という、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に出てくるダブルスピーク(「戦争は平和である」という党のスローガン)という自家撞着を絵画化したような作品だ。だが、これは小説の中の出来事ではなく、現に今も起きていることであり、それを世界が許容し、日本が支援している。この絵を見ることで、そういう現実をあらためて考えさせられた。




 最後に案内されたのが、野見山暁治の『ある証言』だった。

 「なんじゃこりゃあ!」という感じ。いつものように「これ、何に見えますか?」というガイドさんの問いかけに、「クエのような巨大魚があおむけになって大口を開けているところ。背景は海かな」と、適当に答えたわたし。他には、「大きながまぐち」とか、「まな板の上に載せられた魚」などの意見があった。

 実はこれ、大きな壷を上から見た絵だとのこと。 嵐の日にベランダでぐらぐら揺れていた大壺が、ある瞬間にパンッと粉々に割れた、その衝撃を絵にしたそうだ。よく分らないけれど、嵐っぽい雰囲気は漂っていた。92歳の野見山画伯は、今もこうした迫力のある絵を描いていらっしゃるそうである。 その生命力、あやかりたいものだ。

 こんな感じで、美術館のガイドツアーに参加したのは初めてだったが、見ず知らずの人たちと一緒に、ああだこうだと感想を述べながら、ひとつの作品をじっくりと鑑賞するのは、とても楽しい経験だった。

 ほかにも所蔵展には見ごたえのある作品がたくさんあった(ここは「カメラシール」を衣服に貼れば撮影可能。この美術館の、こういう太っ腹なところが好き)。


                                     安田靫彦『挿花』

                 小林古径『茄子』

                                              奥村土牛『胡瓜畑』

                 小倉遊亀『浴女 その二』

 ……と、涼しげな夏らしい展示が続きます。

                                    安井曽太郎『奥入瀬の渓流』

                 安井曽太郎『金蓉』

                                    香月泰男『釣り床』

             大好きな加山又造さんの『天の川』


                                    いつ見ても、美しい絵です。

             イケムラレイコ『樹の愛』

   樹から人が生えているのか、人から樹が生えているのか?
 澁澤龍彦の「スキタイの羊」あるいは「マンドラゴラの根(人の形をいていて、引き抜くと悲鳴のような声をあげるという)」を思い出す。

 澁澤いわく、「ワクワク島では、イチジクに似た植物の果実から、羊ではなくて、人間の若い娘が生じるのである。果実が熟すると、娘は完全な肉体を揃えて、髪の毛で枝からぶら下がり、やがて熟し切ると、『ワクワク』という悲しげな叫び声をあげながら、枝から落ちて死んでしまう。哀切な童話的な幻想にみちた伝説と言ってよいだろう」。

 こういう得体のしれない植物は見ているだけでワクワクします。





 収蔵展以外にも、「いみありげなしみ」というタイトルの「(意味のある?)しみ」をテーマにした作品展もあった(つまるところ絵画を構成するのも、色彩や形状をもつ画面上の「しみ」にほかならない)。

                                   北脇昇『デカルコマニーA』