2010年3月27日土曜日

宴のあと


 巷には成功法則を説いた本であふれているが、わたしが個人的に関心を寄せるのは、成功に至らずに夢破れた者、もしくは成功という山を上りつめた後に転落した者、栄光の後に絶望や失望を味わった人々である。



 夢を失っても、それでもなお、人は生きていけるのだろうか。

 砕け散った人生の断片を拾い集めて、みずから命を断つことなく、おのれの生をまっとうしていけるのだろうかーー。



 ジェローム・D・サリンジャーが長寿をまっとうしてからちょうど2カ月経った。とはいえ、わたしはサリンジャーのファンというわけではない。『ライ麦畑でつかまえて』はわたしにとって、けっして読み終わることのない、一種の奇書であり魔書である(単に、いつも途中で投げ出してしまうだけの話なのだが)。

 訃報を聞いたとき、わたしはサリンジャーが2010年の現在までも生きていたことさえ知らなかった。

 ただ、訃報のニュースが流れた時、その人生にいたく心惹かれたのだ。『ライ麦畑』後の彼の人生に。

 一躍「時の人」となった彼の周りには、さまざまな人が集まってくる。そのとき彼の心に、人生に、どのような変化が訪れたのかは知る由もないが、やがて彼は人との交わりを断ち、家のまわりに高い塀をめぐらせて孤高の生活を送るようになる。しかも、1965年以降、50年近くも作品を発表しないまま余生を送るのだ。



 晩年、サリンジャーは東洋思想、特に禅に傾倒していったと聞く。

 家のまわりに高い塀をめぐらせた孤高の生活。

 わたしは彼の作品よりも、その人生そのものに、無性に惹かれてしまう。

 わたしが惹かれるのは、おそらく彼が経験したであろう、汚れのない「澄み切った孤独」なのかもしれない。