2019年10月5日土曜日

木ノ下歌舞伎オープンラボ 第三期『道成寺』編

2019年10月5日(土)京都芸術劇場春秋座ロビー

春秋座も木ノ下歌舞伎もはじめて。木ノ下裕一さんにはかねてから興味があったので、よい機会だった。木ノ下さん、40代くらいかと思ったら、まだ30代。なのに、昔の映画やサブカルチャーのことに詳しいところはさすが。頭の回転の速く、古典芸能のあれこれを今風の分かりやすいものに譬え説明するのが巧い。

山村友五郎さんはトークの時は関西人らしい舞なのに、上演となると何かが憑依したようにスイッチが入る。この切り替えが素晴らしい。そして、あの嫋やかでなまめかしい手の動きときたら……。至近距離で拝見して、上方舞の豊かな表現技法を堪能できたのが何よりの収穫。



【『道成寺』のストーリーと歴史の解説】
和歌山県出身の木ノ下裕一さんならではの、《道成寺》の解説が見事。『道成寺』の物語が、能などの諸芸能に取り入れられていくまでの歴史の解説が面白かった。以下のような5段階で、道成寺が歌舞伎や舞踊の題材となってゆく。

(1)『大日本国法華験記』平安期
『道成寺』(安珍・清姫伝説)の原典。この物語では、女は「娘」ではなく「未亡人」という設定。僧侶も年長者と青年の2人が登場し、当然ながらヒロインは若い修行僧に恋をする。

(2)『今昔物語』平安期
このバージョンでは女は死亡し、その幽霊が蛇となって現れる。

(3)『道成寺縁起絵巻』
この絵巻では、女が僧を追いかけていくうちに、尻尾が生え、顔が蛇になり、やがて着物を着た蛇の姿になる。シンゴジラの形態変化のように蛇へと変貌していくさまが描かれている。

(4)能《道成寺》

(5)能をもとに、歌舞伎や舞踊の「道成寺物」がつくられる。


【山村友五郎さんによる実演1《古道成寺》】
「道成寺」物は、(1)鐘系と(2)黒髪系(「道成寺黒髪供養」髪長姫の物語)の
系統に分かれる。
(1)鐘系は、さらに、①原説話系(娘の夜這い→僧の逃走→鐘炎上をリアルタイムで語るもの)と、②後日談系(能《道成寺》や黒川能《鐘巻》に描かれた鐘供養が軸となるもの)とに分かれる。

実演1では、①原説話系に属する、地歌「古道成寺」が20分にわたり上演された。
「あの若い僧こそお前の夫となる人だ」と父親に言われた娘はそれを信じて、一途に僧に思いを寄せる。夜這いを掛けるときの、衣紋をつくろい、髪をなでる恥じらいのしぐさ。身体中から恋の蒸気が立ち上るように、心も体も燃え上がってるのが分かる。
友五郎さんの手ぶり、腰つきが何とも色っぽい。
何の迷いもなく、全身全霊をこめて、僧の胸に飛び込んてゆく。
そんな娘の純粋な、そして純粋であるがゆえに、狂気をはらんだ恋心がなよやかな舞によって描かれる。

「せめて一夜は寝て語ろ 後ほど忍び申すべし」と娘を部屋で待たせ、振り返った僧侶の顔が豹変する。

「仕すましたり」

ここで、若い僧はおのれの穢れた煩悩を祓うように我に返り、夜半にまぎれて一目散ににげてゆく。

娘が蛇になって日高川を渡るところは、銀地の扇2本で荒れ狂う川浪を表現。ジャグリングのような鮮やかな扇ざばき。

大河を泳ぎ切ったところで、鱗文の扇1本に持ち替え、それをクルクル廻しながら、蛇の赤い舌の動きや逆巻く炎を描き出す。

最後は龍頭に見立てた扇を口に加え、龍が鐘を七巻したところで、尾で鐘を叩くと、灼熱の炎で鐘が溶け、若い僧を焼き焦がす。

ここは、娘が僧に会いたいあまりに尻尾で鐘を叩いただけで、殺すつもりはなかったのだろうと、あとで友五郎さんがおっしゃっていたのが印象的だった。


【山村友五郎さんによる実演2《京鹿子娘道成寺》山尽くし】
実演2では、②後日談系に属する、長唄「京鹿子娘道成寺」から「山尽くし」を上演。

「面白の四季の眺めや三国一の富士の山」から、吉野山、嵐山、朝日山……と22の山が登場する。
「石山」では、筆に何かを掻きつける所作で紫式部が『源氏物語』を執筆しているさまを表現。「大江山」では、お酒を飲むしぐさで盃を飲む酒呑童子をあらわす。「三上山」では「三(み)」と「見(み)」をかけて、鏡を見るしぐさ。「稲荷山」では、ケモノ足で狐を描写し、「姨捨山」では背負う所作で棄老の場面をほのめかす。

最後のほうの「入相の鐘」という言葉でようやく《道成寺》との関連が明かされる。

それぞれの山が連想させる故事がフラッシュバックのようによみがえる非常に楽しい小段だった。


2012年6月3日日曜日

NHK短歌佳作 ~短歌セラピー4~

                                  
 いつかまた戻ってみたい屋根裏の
          ドアから過去へ、あの異次元へ





子どものころから繰り返し見る夢がある。

自宅(何の変哲もない普通の住宅)の押し入れやクローゼットの中、天袋の上にぽっかり穴が開いていて、そこから階段や抜け道がのび、それまでその存在にまったく気づかなかった秘密部屋や薄暗い座敷に続いている。
未知だったはずなのに不思議なほど既知感のあるノスタルジックな室内空間がひろがっているのだ。
(子宮回帰願望のバリエーションだろうか。)


この「平々凡々な日常からの空間的逸脱」というコンセプトがとても気に入っていて、この種の夢を見た日は何となくウキウキした気分になる。


屋根裏を題材にした作品には、乱歩の『屋根裏の散歩者』やアラン・ガードナーの『ふくろう
模様の皿』などがあって、これらは夢ねこの子ども時代に多大な影響を与え、それが夢にも作用したのかもしれない。

屋根裏や座敷牢と人間心理の関係を分析した春日武彦の『屋根裏に誰かいるんですよ。』には、「幻の同居人」と呼ばれる虚構の存在と共同生活を送る心を病んだ人々の例が語られている。

夢ねこも、この先一人暮らしをすることがあったら、幻の同居人の存在を妄想して、ぶつぶついいながら一緒に暮らすのだろうか。
それも悪くないかもしれない。


この歌は、「NHK短歌」2012年2月号に佳作として掲載されました。
題は「裏」。
選んでくださったのは、坂井修一先生です。

ありがとうございました。













NHK短歌佳作 ~短歌セラピー3~



いまはもうなにも思わずただ生きて時間薬を飲んで待つだけ





時の流れは残酷だけど、最大の癒しでもある。




この歌は、佐伯裕子先生に佳作として選んでいただきました。
題は、「間」。
「NHK短歌」2012年1月号掲載。

ありがとうございました。

































NHK短歌佳作 ~短歌セラピー2~




脳といふ入れ子の迷宮さまよへりアリアドネの糸手繰りたれども





ほんとうは、もっと自由になれるはずなのに、自由になれない束縛感、息苦しさ。

縛っているのは、だれ? 
呪縛の根源は、なに?

それは自分。
自分の思い、感情、願望、思考……。
脳!
自己意識を意識する入れ子構造。

自分で自分の脳にとらわれ、身動きできなくなっている。
クレタ島のラビリンスからテセウスを救ったアリアドネの糸を手繰っても、
抜け出せない脳の迷宮。

「自分」から自由になれる日は、来るのだろうか。


この歌は、「NHK短歌」2011年11月号に佳作として掲載されました。
選者は坂井修一先生。
題は「迷う」。

ありがとうございました。





2012年4月30日月曜日

東北の春

GWの前半(4月29日)、桜の見ごろを迎えた東北は、花見客でにぎわっていた。

多賀城政庁跡の桜

ほんとうに自然のパワーは凄い。
喜びも、悲しみも、いろんなものを与えてくれる。


東北鎮護・奥州一宮「塩竈神社」


満開の桜




宝物を運ぶ神主さん


桜に平安装束が映えます



神苑




大島桜や佐野桜、兼六園菊桜、染井吉野など、色とりどりの桜


撫でると無病息災の御利益があるとされる「なで牛」
インドのシヴァ神信仰に由来するのかもしれない
愛嬌のある顔は、みんなに撫でられて黒光りしています



見事な枝垂れ桜


国の天然記念物「塩竈桜」
手毬状につく八重桜です


芭蕉が塩竈神社を参拝した折に見て、感動したとされる「文治灯籠」
しかし実際には、本物の文治灯籠は戦時中に供出されてしまったので、
この錆びた灯籠は戦後につくられたレプリカとのこと




塩竈神社社殿
ブルーノ・タウトは好みではないかもしれないが、
芭蕉は『奥の細道』のなかで荘厳な社殿を褒め称えた



1809年に、伊達周宗が蝦夷地警護凱旋ののち
奉寶として寄進した灯籠
江戸後期の高度な鋳物技術がうかがえる



塩竈神社内の「志波彦神社」



志波彦神社の前からは塩竈港と島々が見降ろせます


昨日の荒涼とした被災地とは、対照的な風景だった。

津波に襲われた場所は荒漠とした原野のようだが、影響を受けなかった場所は、傾きかけた古い家屋や店舗がまばらにあるだけで、ごく普通の街並みのように見える。

ほんの数日滞在しただけでは、被災地の現状など分かるはずもないが、現実をぐっと静かに受け止め、立ちあがり、前に進む人々の姿を見ることができた。

「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」
アランのこの言葉を実践しているかのような素敵な笑顔を、宮城で何度も目にした。


家族や親族が一緒だった(親戚のお見舞いと母の古希のお祝いを兼ねていた)ので、直接被災した場所をあまり見ることができなかったが、着々と復興に向かいつつある東北のパワーを実感した旅だった。





























































被災地へ

GWの初日、東京在住のわたしの家族は、大阪在住の親族たち(総勢8人)とともに、宮城県南部に住む伯父(父の兄)宅を訪れた。
(大阪の親族とは、仙台で合流。)


何もかも、すべて津波に流されて、原野のような荒涼とした風景が広がる
塩害のため草木も生えない

去年の震災では、父方の親戚が被災した。
遠い親戚のなかには家屋とともに津波に流されて亡くなった人もいたそうだが、わたしの伯父・叔父や従兄弟たちは奇跡的に無事で、家屋への被害も少なかった。


しかし、震災から1年以上たった今、伯父や叔父が大病を患ったり体調を崩したりしたため、お見舞いを兼ねて被災地に向かったのだった。


海沿いを走る常磐線の「坂元駅」の線路とホーム



坂元駅の駅舎は流され、線路は途切れていた。
線路が続いていた先に立つ煙突から、煙が出ているのが見えるだろうか。
瓦礫が焼却されているのだ。



かつて神社があった場所。赤く塗られたコンクリートは鳥居の残骸。




かつて松林や民家、イチゴ栽培のビニールハウスがあった場所。


点在する瓦礫の山。


新設された焼却炉で処理される瓦礫。



瓦礫の広域処理の是非について、わたしのなかでは未だに答えが見つからない。

瓦礫を広域で処理することによって、放射能汚染が全国に拡散するリスクは当然ある。
また、広域処理には巨額の利権が絡んでいるという(瓦礫処理に積極的な自治体首長や政治家が自分の身内が経営する産廃業者に便宜を図っているなどの)問題もある。


ただ、被災地の多くの人たちが、いまも苦しみ続けていることも事実だ。


瓦礫の山をこの目で見ても、答えが出ないことに変わりはないが、
瓦礫の広域処理をするというならば、広域処理の基準とされる1キロあたり8000ベクレルという基準はやはり高すぎると思う(IAEAの国際基準では、1キロあたり100ベクレル以上のものは低レベル放射性廃棄物処理場で厳格に管理するよう定められている)。
また、データの透明性を極限まで高める必要もあるだろう。


いずれにしろ、復興を遅らせている最大の原因のひとつは、言うまでもなく原発事故である。

これさえなければ、多くの自治体が瓦礫を喜んで受け入れただろうし、わたしのように水や食材や空気の放射能汚染を気にしている人も、復興支援のために、被災地の農水産物を積極的に購入したはずだ。

こうした悲劇を二度と繰り返さないためにも、メリットに比べてデメリットがあまりにも多すぎる原発依存から脱却しなければならない。

もちろん、それには多少の痛みが伴う。
電気によって実現した便利な生活を、今よりも若干不便な数十年前の生活に戻すことも必要なのかもしれない。


















































2012年4月22日日曜日

ボストン美術館展〈プロローグ コレクションのはじまり〉

「ボストン美術館 日本美術の至宝」展は、東京国立博物館140周年記念展だけに、主役級の名品ばかりが一堂にそろった超豪華キャストの展覧会だった。



第Ⅰ部〈プロローグ コレクションのはじまり〉
文明開化後、西洋化が推奨され、日本文化が軽視されていたなか、日本の美術を高く評価し、没落した大名家や廃寺から散逸していた名品を蒐集したフェノロサー、ビゲロー、岡倉天心の功績をたたえるコーナー。


ここでは、日本画革新の運動を興し、新しい画家を育てるためにフェノロサが主宰した「鑑画会」の成果ともいえる、狩野芳崖や橋本雅邦の作品が展示されていた。



4 《騎龍弁天》 橋本雅邦 1886年頃   (数字は作品番号)
 
  鑑画会の2等賞に入賞した作品。
  逆巻く大海原の波間から勢いよく天に昇る龍。その背中には、佳人のように優雅な弁財天が坐っている。幕末までの日本画には見られなかった鮮やかな配色が印象的だった。

東京国立近代美術館に、原田直次郎の油彩画《騎龍観音》が所蔵されているが、あの大画面の絵は、雅邦のこの《騎龍弁天》から着想を得たものだろうか。

革新的な日本画が、革新的な洋画にインスピレーションを与え、相乗効果で斬新な作品が生まれていく。明治という時代の面白さがイメージできる作品だった。



参考:《騎龍観音》原田直次郎、1890年


 フェノロサは、その講演記録『美術真説』(1882年)のなかで、芸術の本質は「妙想(イデア)」(理念の表現)にあると述べている。

 彼は絵画創作上の大きな要素として、線と明暗(濃淡)と色彩の3つをあげ、それに絵の主題を加えた4つがそれぞれ調和をとり、統一をはかることが必要であり、さらにそこに「妙想」を表現する「意匠」と、それを実際の画面にする技の力が必要であると説いている。
 これらの条件がそろってはじめて「妙想」ある絵画が成立するという。

そして、妙想という観点から、フェノロサは日本画と西洋画(油絵)を以下のように比較考察する。

(1)日本画と油絵を比較した時に、油絵ははるかに写生的で実物を模写した写真のようなものであり、写生を重視して「妙想」を失っている。すべての絵には写実を超えた理念がなければならないが、いまの油絵にはそれが欠けているものが多い。日本画のなかでも、円山派や北斎は写生に走って画道の本領から遠ざかった。

(2)ものを描く以上は陰を描くのが当然のようだが、あまりに科学的に絵をとらえようとすると「妙想」を失う恐れがある。その点、日本画はわずかの墨だけで「妙想」を表せる、としている。

(3)日本画は実物を写生的に描かず、線で美しさを強調して、妙想を表す長所がある。

(4)色彩表現の豊かさに頼っているために、油絵は妙想を忘れる傾向がある。

(5)簡潔な方が画面全体を引き締めることは言うまでもない。

このように、フェノロサの考察によると、日本画の欠点とされた陰翳の欠如や線描きを主体とする描写法も、「妙想」を重視する観点からすれば、逆に長所として生かせることになる。
    

フェノロサはたんに自分の好みだけで日本画に傾倒していたのではなく、西洋画との違いを論理的に分析したうえで、日本の美術を評価したことが以上の記述からわかる。

現に、彼の日本美術の収集法はけっして恣意的なものではなかった。彼は日本美術史をシステマティックに整理し、美術品を系統立てて買い取っていったので、今回の展示も順番に鑑賞していくことで、日本の美術史を概観できるようになっていた。


            参考文献:堀田謹吾『名品流転 ボストン美術館の「日本」』  





















ボストン美術館展〈仏のかたち 神のすがた〉

東京国立博物館「ボストン美術館 日本美術の至宝」展第Ⅱ部は〈仏のかたち 神のすがた〉。
ここは海を渡った仏画や仏像、春日曼荼羅などを紹介するコーナーだった。


5 《法華堂根本曼荼羅図》 8世紀、奈良時代
東大寺法華堂に伝来。日本のみならず東洋美術史的にも重要な作品で、日本に残っていれば国宝に指定されでいただろう名品中の名品。法華経(妙法蓮華経如来寿量品第16 自我偈)の如来の説法の場面が描かれていた。

唐代の山水画に倣った背景には、奥行き感があり、剥落してわかりにくいが、宝の樹に華が咲く誇るという「宝樹多華果」の様子が描写され、仏の住まう天界の様子が再現されていた。
描かれた当初は鮮やかな彩色で、夢のような幻想的な世界が映し出されていたはずだ。



8  《普賢菩薩延命菩薩像》 12世紀中頃、平安時代
5頭の白像の上に、3つの顔を持つ白像(それぞれの白像が6本の牙を持つ)が立ち、その三面の白像に普賢菩薩がまたがっている仏画。普賢菩薩の周りには四天王が取り巻いている。

菩薩の女性のように白い柔肌には艶っぽい隈取りが施され、瓔珞や法具には金銀の錐金が多用され、光背には透かし彫りのような繊細な表現で描かれた、いかにも平安末期らしい耽美的で装飾的な作品だった。



11 《一字金輪像》 13世紀初め、鎌倉時代
「一字金輪」とは、如来の最高の智慧を象徴化したもので、「如来よりも上」とされる密教で最高位の仏のこと。
気品のある理知的で端正な顔立ち、切れ長の目、無駄な装飾を排したシンプルな画面構成など、鎌倉時代の仏画の特徴を備えた優美な画で、仏の顔には当時の人々の理想の美が反映されているように思われた。



23 《弥勒菩薩立像》 快慶、1189年、鎌倉時代
奈良の興福寺に伝来したもの。修復時に見つかった胎内教の記述から、快慶による現存最古の作例とされている。
凛として立つ美しい仏像の姿には一分の隙もなく、完全無欠な造形だ。秀麗で知的な顔立ちでありながら、手足は貴婦人のように優美でほっそりとしている。水晶の玉眼を嵌め込んだ瞳は、見る者がどの位置に立っても、相手を見つめ、その内面を見通すかのように、鋭く澄んでいる。

これほど完璧な仏像が、快慶最初期の作品とは……天才ってこういうことなんですね。
ミケランジェロやベルニーニに何百年も先行して、これほど凄い彫刻家が日本で活躍していたのだとあらためて実感。
この仏像の美しさは図版ではぜったいに伝わってこないので、ぜひ実物をご覧ください!







ボストン美術館展《吉備大臣入唐絵巻》

「ボストン美術館 日本美術の至宝」展第Ⅲ部は〈海を渡った二大絵巻〉。
《吉備大臣入唐絵巻》と、《平治物語絵巻》の「三条殿焼討巻」が展示されていた。


26 《吉備大臣入唐絵巻》 12世紀後半、平安時代
 《吉備大臣入唐絵巻》は、平安時代末期に後白河法皇の発意で制作されたとされている。
  この絵巻は、遣唐使として中国に渡った吉備大臣(吉備真備)が、唐の皇帝によって楼に幽閉され、数々の難題を課せられるが、唐土で客死した阿倍仲麻呂(幽鬼となって登場)の助けを借りながら、難題を次々と解決し、ついには「文選」、「囲碁」「野馬台詩」などを携えて、日本に帰国するまでの冒険譚をビジュアル化したもの。

 制作された当初は蓮華王院(現・三十三間堂)の宝蔵に収められていたが、その後さまざまな人の手に渡り、幕末には茶器蒐集家として有名な小浜の酒井家に伝わるが、大正期に名宝の売却がおこなわれた際に、大阪の古美術商が落札。その後、長い間買い手がつかなかったのを、東洋美術の買い付けのために来日したボストン美術館の富田幸次郎(天心の弟子)が購入した結果、《吉備大臣入唐絵巻》は海外に流出したとされている。


《吉備入唐絵巻》の構図の最大の特徴は、「吉備大臣が幽閉された楼門」、「唐の宮廷の門」、「唐の宮殿」という同一構図が反復する単純さであり、それゆえに、構図の複雑な《伴大納言絵巻》や《平治物語絵巻》に比べると、芸術的価値が低いとされてきた。


《吉備大臣入唐絵巻》のこのような評価に対して、日本史家の黒田日出男氏は著書『吉備大臣入唐絵巻の謎』(小学館)のなかで、同絵巻における錯簡(3箇所)の存在を指摘することによって反論している。

●黒田日出男氏が指摘した3箇所の錯簡

(1)第2後半には、帝王に命じられた宝志和尚が難読の「野馬台詩」を書いている場面が錯簡として入っている。

(2)第1段後半には、吉備大臣が日月を封じたために、唐朝の宮廷が大騒ぎとなっている場面の錯簡。

(3)第5段後半には、日月が封じられて唐土が真っ暗になった原因を占うべく、老博士らが宮殿に参内する場面が錯簡となっていた。


このように黒田氏は、錯簡の存在を指摘したうえで、「従来、現存『吉備大臣入唐絵巻』は、冒頭の詞書と後半部分だけの欠失が指摘されてきたのだが、そうではなかった。三つの段に錯簡があり、失われたと思われていた絵巻後半の三つの段が、錯簡状態で残っていたのである」としている。


黒田氏の指摘に従って、《吉備大臣入唐絵巻》を並べ替えてみると、絵巻の構図の冗漫さは解消され、ストーリーの流れもすっきりするので、同絵巻の醍醐味を存分に味わいたい方は、展覧会に足を運ぶ前に、『吉備大臣入唐絵巻の謎』を一読することをお勧めします。



さらに、この絵巻にもっと関心がある方にお勧めなのが、倉西裕子『吉備大臣入唐絵巻 知られざる古代中世一千年史』(勉誠出版)。

詳しい内容は割愛するが、倉西氏によると、吉備大臣が幽閉された到来楼と弥生時代の高層建築物(出雲大社など)、吉備大臣と卑弥呼、唐の宮殿と清涼殿(平安朝の内裏)とが、それぞれダブルイメージされて描かれているという(いささか牽強付会に感じるが)。

倉西氏の論考で興味深かったのが、唐の宮殿と清涼殿のダブルイメージを、この絵巻のプロデューサーである後鳥羽法皇が絵師に意図的に描かせたのではないか、という指摘だ。

同氏はこのように述べている。
唐王朝の宮殿と清涼殿のダブルイメージにも、院政と天皇親政という権力の二重構造の問題を抱えていた平安末期の政治状況を映し出す後白河法皇の意図があったようである。後白河法皇のの院御所が到来楼であるならば、対する天皇の清涼殿は唐王朝の宮殿となろう。絵巻は、院政側、すなわち到来楼側の後白河法皇の視点から描かれているのである。」


また、倉西氏は、到来楼に閉じ込められた吉備大臣に対して、後鳥羽法王が強い関心を寄せたのは、法王自身がその生涯で7度以上も幽閉されたからではないかと述べている。

そして後鳥羽法皇の第1回目の拉致・幽閉となったのが、平治の乱である。

今回の展覧会では、《吉備大臣入唐絵巻》に続いて、後鳥羽法皇拉致の場面を劇的に描いた、《平治物語絵巻》の「三条殿焼討巻」が展示されており、ことさら感慨深いものがあった。



以上、ぐだぐだと書き並べましたが、予備知識がなくても、絵を見ているだけでも十分に楽しめる、劇画チックで表情豊かな、ユーモラスな絵巻物でした。
とくに、吉備大臣と鬼が空中飛行する場面や、囲碁の勝負で吉備大臣が碁石を飲みこんじゃう騒動の場面は必見!
鳥獣戯画と並んで、日本アニメの元祖なんじゃないかな。




ボストン美術館展《平治物語絵巻》

27 《平治物語絵巻》「三条殿焼討巻」 13世紀後半、鎌倉時代

平安末期(1159年)に起きた平治の乱の100年後に制作された《平治物語絵巻》は、本来は15巻にもおよぶ大作だったが、現在は「三条殿焼討巻」(ボストン美術館所蔵)、「六波羅行幸巻」(東京国立博物館所蔵)、「信西巻」(静嘉堂文庫美術館蔵)の3巻と、色紙状の数葉のみが現存している。

「三条殿焼討巻」は、平治の乱のきっかけとなった、藤原信頼と源義朝による後白河上皇の拉致と御所三条殿の焼討の場面を描いたもの。

焼討の炎を見て駆けつける公卿たちや、逃げ惑う人々、衝突する牛車、牛車に轢かれる人など、都の争乱の混乱ぶりがじつにドラマティックに描かれている。

生き物のように勢いよく燃え上がる炎ともくもくと立ち上る黒煙の描写は圧巻!
きっとこの絵巻の絵師は、どこかで火災が起きるたびに一目散に駆けつけて、スケッチしたのではないかなあ。都を焼き尽くす炎が、最小限の描線で巧みに描かれていた。

三条殿のなかでは、凌辱されたと思われる、胸をさらした女房たちの無残な屍が折り重なり、抵抗する人々の首や腹から鮮血がほとばしり、塀の外では信西の生首が薙刀にくくりつけられてさらされるなど、地獄絵図のような凄惨を極めた場面がリアルに描かれている。

平安末期に制作された《吉備大臣入唐絵巻》には、どこかほのぼのとした、ユーモラスでのどかな雰囲気が漂っていたのに対し、鎌倉後期に描かれた《平治物語絵巻》は、厳格で透徹したリアリズムと、見る者の猟奇的嗜好を刺激する、容赦ない残虐性で彩られている。

全体を俯瞰する角度から描かれているのだが、まるで一大スペクタクル映画の戦闘シーンのように、迫力に満ちていた。



〈番外編〉東京国立博物館・国宝室(本館2階)

《平治物語絵巻》「六波羅行幸巻」  13世紀後半、鎌倉時代

東博の常設展では、国宝《平治物語絵巻》「六波羅行幸巻」が、展示されていた。
「六波羅行幸巻」は、内裏に幽閉された二条天皇が脱出を図り、清盛の六波羅邸に逃げ込む場面を描いたもの。この巻は、江戸時代には大名茶人・松平不昧公が所蔵していた。


第1段:天皇と中宮が乗る牛車の御簾を上げて中をあらためる武士たち

第2段:美福門院の六波羅御幸を護衛する人々



第3段:六波羅邸の武者揃い


第4段:天皇の脱出を知ってあわてる信頼



人々の表情やポーズや動きが場面に即して的確に描かれているのがこの絵巻の魅力だ。
躍動感に満ちた壮大な「三条殿焼討巻」とあわせて見ると、楽しさが倍増する。


この「六波羅行幸巻」で注目したいのが、中年の「牛飼い童」。

遠目で見れば牛飼い「童」だが、クローズアップしてみると、むさくるしい中年男


橋本治の『ひらがな日本美術史2』には面白いことが書いてある。


平安時代の”牛飼い童”は、長い髪を後ろで一つにまとめ、水干を着て裸足で牛を引く。これはあきらかに”少年の風俗”なのだが、しかしだからといって、すべての”牛飼い童”が少年だったわけじゃない。
(中略)
”牛飼い童”は職業で、彼がその職業についている限り、彼は”童”を卒業することが出来ない。だから、牛飼いの童の中には、こういう陰鬱でごっつい中年男もいた。

 院政の時代とは、摂政関白という、たった一人の男に牛耳られていた優雅な抑圧の中から複数の男たちが誕生する、猥雑な時代なのだ。保元の乱も平治の乱も源平の合戦も、こういう複数の男たちの自己主張から生まれる。(中略)
 そこには、さまざまな男たちがいる。品のいい若武者も、ごっつい牛飼いの童も、昔ながらの貴族も。野蛮で生々しくて雑駁で優雅な《平治物語絵巻》は、こうした院政時代の内実を十分に消化吸収した後の鎌倉時代になって生まれた、新しい絵巻物なのである。
――橋本治『ひらがな日本美術史2』



橋本治のいう「野蛮で生々しくて雑駁で優雅な《平治物語絵巻》」は、この春、東博の特別展・常設展、そして静嘉堂文庫美術館で見ることができます。

現存する3巻を1度に鑑賞できるまたとない機会なので、時間を見つけて、静嘉堂文庫美術館「東洋絵画の精華」展にも行ってみようと思います。